Data Visualization Japan Meetup 2023(2023年12月29・30日開催)における、工藤 麻里さんの講演です。情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の修士論文を抜粋し、データビジュアライゼーションが現代社会に与える影響を批評的に論じます。
「無用なデータで更新する現代社会のデータリテラシー:データビジュアライゼーションと主婦」を発表します。工藤麻里と申します。
本発表は情報科学芸術大学院大学(IAMAS)の修士論文を抜粋し、本コミュニティに合わせて再構成したものです。内容は先ほどの市川さんの発表と比べるとかなり硬い感じになりますし、論文独特の言い回しもありますが、楽しんでいただければと思います。内容的には(市川さんの発表と)非常につながっているところが多いと思います。
自己紹介
今年の3月まで大学院で勉強していて、現在は日本メディア学会に所属しながら会社員として働いています。大学ではフランス哲学・フランス文学をやっていたので、今回の論文の中にも哲学者の引用が出てくると思います。そういうところも特徴になってくるかなと思います。
可視化との関わりとしては、企業の中で社内外とデータを共有するために可視化を行うという、極めて一般的な関わり方をしています。ただし、その一般的な関わりから気づくことも多いのではないかと思い、そういった知見を共有したいと思います。
研究目的
データビジュアライゼーションが見えない権力を持つ様子を、データビジュアライゼーションの「まなざし」として分析します。このまなざしに対して、データビジュアライゼーション自体による解決策を提示することが本研究の目的です。
1954年に作家のダレル・ハフが統計のごまかしを指摘したことはご存知の通りです。ハフは大きく5つの問題を取り上げますが、大別すると「データがない」という問題と「視覚的に誇張される」という2点の問題があります。
一般的なデータビジュアライゼーションの制作工程には、データの選択、クレンジング、セグメンテーション、比較、明確なパターンの抽出、グラフィック空間への描画などがあります。そこで発生するまなざしを7つ提示します。
「まなざし」とは
本論では、データビジュアライゼーションが生み出す問題を「まなざし」と独自に表現しています。この言葉は社会学者ジョン・アーリの定義を用いています。アーリの説明を抜粋します。
ものごとを見るということは実は習得された能力であって、純粋な、無垢な目などありえないということである。見ているものは、外に待ち構えているような既知の実像などではなく、認知の枠組みなのだ。物の姿も言語的に構成されたものなのである。まなざす行為は、原則として社会的に構成された視覚の制度である。結局その社会的・歴史的特質であり、権力関係の所産なのだ。
データビジュアライゼーションはそのようなまなざしを持っているでしょうか。
7つのまなざし
① 集合視のまなざし データはもともと多様なばらつきを持つ「個」です。多様な個を集合体として扱うのが集合視のまなざしです。
② 比較と分断のまなざし 対象の共通項を見出して同一化した上で、今度は差異化を行うことが比較と分断のまなざしです。統一化と差異化は、作り手の裁量によって恣意的に組み替えられます。
③ 属性付与のまなざし 集団にラベルが付与されると、まなざす主体は集団に属する個を均質化します。
④ ラベルの下の均質化 反対に、まなざされた客体がまなざしの内面化を引き起こし、自律的に均質化することを「ラベルの下の均質化」と表現します。
⑤ ノイズを除去するまなざし 作業のためにはクリーンなデータが必要です。データはクリーニングされた際に、個々のデータが背景に持っていたコンテクストが失われます。
⑥ 俯瞰のまなざし 俯瞰のまなざしは、人々が社会を直感視することを促します。イアン・ハッキングは、印刷技術が確信され民衆統治のために収集された統計情報が、ナポレオン政府の崩壊とともに人々の間に漏れ出るように露出していったと述べます。ハッキングによれば、俯瞰視点は民衆に漏れ出た為政者の視点とも言えます。
⑦ 量の正義のまなざし 値が多いか少ないかのみに注目が集まり、「多い方が良い、増やしたい」という傾向を見せることが量の正義のまなざしです。同時に、小さい方・少ない方は無視されるか、価値が低いとされます。汎用なデータパターンは無視されます。例えば2つのデータを比べてその差が大きくなければ「可視化するに値しない」として、可視化自体が行われず、なかったことになります。
これらが7つのまなざしであり、意図的でなく、正当な制作工程を経ても生み出される可能性があります。
思想の再生産装置としてのパノプティコン
さらに、まなざしは強い視覚効果を持つことによって、思想の再生産装置となります。
ここでジェレミー・ベンサムが考案し、ミシェル・フーコーが紹介した刑務所の構造「パノプティコン」を説明します。これは円形の刑務所施設で、管理塔からは囚人たちを一望に監視できる一方、囚人はお互いおよび刑務官が見えません。その構造により、いずれ囚人が自身の行動を自己抑制するようになります。
私がこの装置からヒントを得ているのは、個が集合体の中の1つとして振る舞い、自己抑制を行っていく過程です。このような振る舞いは、データビジュアライゼーションにも言える部分があるのではないかと考えます。
なぜ「主婦」なのか
本論では、集合体の個から権力を見返すものとして「主婦」を用います。
主婦を用いる理由は、近代社会の中で構築された主婦という存在が、近代社会の中で他者であり、不可視化され、取りこぼされるデータであるからです。存在しているようで主体を持たない存在であると言えます。
具体的な例を見てみます。統計調査で主婦は「働いていないもの」であると定義されたことが過去に問題になり是正されましたが、一般に主婦の労働の価値は無視されます。
社会学者マリア・ミースによれば、賃金化された労働の背後に「自然のもの・存在しないもの」とみなされてきた領域があり、そこから無償生産として奪われていく搾取体制があるからこそ資本主義は進行できる、と指摘されています。中でも典型的なのが女性であり、自然化される過程をミースは「主婦化」と呼んでいます。
主婦の労働は、右肩上がりの経済成長の背後で「自然に絶え間なく供給される」というフィクションのもとに成り立っています。
専業主婦、共働き、フルタイム、パート、扶養内、扶養外、独りでこなす――主婦はデータビジュアライゼーションのまなざしの客体であり、常に集合視された上で分断され、比較対照にさらされています。
さらに、主婦とまなざされた者たちは、そのラベルで属性を付与され均質化されます。多様な個が「1つの性質を持つ主婦という集合体」であるように、自身へのまなざしを内面化します。しかし主婦という集合体は結局虚構であり、実態などないのです。そのような属性付与とラベルの下の均質化を指摘します。
このような主婦からヒントを得て、主婦を代表とする「無用とされるデータ」が原理となるデータビジュアライゼーションの方法論を構築できないかと考えるのです。
「データを入れれば解決する」わけではない
主婦のデータが不在であるならば、データを入れることで問題は解決するでしょうか。
例えば内閣府は男女共同参画白書に、働く主婦や母のデータビジュアライゼーションを多く掲載します。しかしその方法は表層的です。女性を新たな労働力として評価する――女性のまなざされ方が変わるだけで、その支配構造は変わらないのです。
また地理学者ジョニー・シーガーは、世界地図の上に女性に関連するデータをマッピングします。しかしそれも同様に、まなざしの支配構造を保ったまま主体を女性に入れ替える方法であり、女性が男性に代わって支配権を得た上で、データビジュアライゼーションによるまなざしが相変わらず繰り返されるのです。
こうした事例から考察できるのは、まなざしの問題は「女性のデータがあれば解消する」というわけではないということです。まなざしの支配構造を打ち壊すような、新たな手段が必要です。
インタラクティブ手法も解決策ではない
また、インタラクティブな手法もすべての問題を解消するわけではないと付け加えておきます。ジャーナリズムを研究するエステル・アッペルグレンは、データジャーナリズムに関する論文の中で以下のように指摘します。
インタラクティブ機能は、一見データビジュアライゼーションの受け手が自由意思によってデータビジュアライゼーションを操作し、支配権を得ているかに見せかける。しかしその選択肢は作り手によって情報の到達や思考の範囲が制御されたものである。インタラクティブ機能の問題点は、受け手の自由意思があるように見せかけて、実際は選択の自由が周到に奪われている点なのである。
まなざしを乗り越える3つのアイデア
これまでのデータビジュアライゼーション作品の中から、まなざしを乗り越えようと試みる作品を見出し、3つのアイデアとして分類します。
① 近代より以前に戻る方法
博物学者・探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトは、近代グラフを創始したウィリアム・プレイフェアと同じ時代を生きました。しかし彼が自然と向き合い独自の表現を探求したことにより、近代思想から離れる表現を模索した痕跡をその作品の中に見出します。
杉浦康平は、主観を投影する手法を取ったことでよく知られています。
② 制作工程を否定し逆行する方法
2020年5月のニューヨーク・タイムズ紙の表紙の表現です。アメリカにおける COVID-19 の死者10万人を集合視せず、個の尊厳を保つことを配慮する意図のもと、死者一人ひとりの名前と人物像を書き連ねました。これは個の集合化を否定し、分断と比較を否定する例であると捉えます。
③ アーティストの実践
現代芸術家の寺脇 扶美は、母子手帳の中の数字を恣意的に抜き出したビジュアライゼーション作品を展示しました。寺脇はこの作品によって、生まれたばかりの赤ん坊が統計や標準化の対象となり、まなざしの客体化がすでに始まっていることに反発します。
同じく現代芸術家のミエルレ・ラダーマン・ユケレスは、その作品《Touch Sanitation》において、ゴミ清掃員一人ひとりと握手をし感謝を述べるパフォーマンスを行いました。「臭い」「汚い」といった差別的なまなざしの客体となる人々に、ユケレスは敬意を持って接します。それを芸術と位置づけることによって、芸術と社会を支持する固定化されたヒエラルキーを撹乱するのです。
パンデミック期の「よれよれの線」
これらの作品を参考に、新たな表現を模索します。
私は2020年、COVID-19 のパンデミックの中で、英語圏の人々がインターネットにおいて「グラフ大喜利」の文脈で作った手書きのグラフに着目しました。
そのグラフは「現時点(2020年)の相対的重要性」というタイトルが示され、x軸は左から右に3月・4月・5月・6月と時間の経過を示しています。y軸は相対的重要性の量的変化です。グラフに描かれる要素は上から、ブラックコーヒー、車、インターネット、髭剃り、お酒、トイレットペーパー、スウェットパンツ、マスクなど。ラベルと同じ色の折れ線によって、重要性の時系列変化が描かれます。
作り手らは、データビジュアライゼーションの強みである客観性や正確性を軽々と打ち捨て、一方でグラフの下部には「パンデミックの間の最も正確なグラフ」と皮肉めかして書き込みます。
私は初めに赤いマスクの線に注意を向けましたが、次第にマスクより黄色いブラの線に着目しました。ブラの線は、それがないグラフから女性が書き加えたものであると、当時の私自身は直感的に感じ取りました。似たグラフはいくつも作られ、別のバージョンでもマスクやブラが追加されていく様子が分かります。
私はこれを見た時、1968年に行われたデモ行進でブラを「自由のためのゴミ箱」に入れるパフォーマンスと重ね合わせました。女性の下着は女性が好んでつけているものとは限らず、他人から見られる場合の社会的な装置の側面があるからです。
グラフを書き加えた女性自身が、ここまで明確に考えたとは思えません。しかし私は、このよれよれの線が、常に客体とされた無用なデータが自らの手によって自然発生的に出現した現代的な書法ではないか、と読み替えました。
よれよれの線が追加されアップデートされたグラフは、最も力の抜けた方法でまなざしの支配構造を打ち壊し、それを上書きする手段であると考えたのです。
まとめ
データビジュアライゼーションにおいては、主婦に限らず取りこぼされるデータが発生します。
パンデミック期に「グラフ大喜利」の文脈で不特定多数の人々によって書き出されていった手書きのグラフの中に、無用なデータが原理となるデータビジュアライゼーションの可能性を見出します。
無用なデータを見出し、無用なデータから見返す力は、データビジュアライゼーションのまなざしへの対抗措置であるとして、現代社会のデータリテラシーをアップデートするのです。
最後に、本論に興味を持たれた方のための参考文献をつけています。
今後もデータビジュアライゼーションを考察するような研究を続けていきたいと思っていますので、機会があればお声がけいただけますと幸いです。どうもありがとうございました。